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「わからない」のまま

何かこう、はっきりとしたきっかけがあって、長い間考えていたことが、「そういうことかもしれない」と腑に落ちる、というような、そういうことがあったとき、得てしてその「はっきりとしたきっかけ」の功績が多弁に語られてしまうものだけれども、僕はむしろ、そのきっかけに至るまでの間の、「わからないままで考えている時間」というか、そちらの方が大事なのではないかと、そう思っている。だから、僕がこれから書くことには確かな「はっきりとしたきっかけ」がちゃんとあるのだけれども、それについて話すのは別の機会に譲ることにして、どうやらわかったらしい「長い間考えていたこと」について、そのことについてだけ、ちょっと書いてみようと思います。

 「長い間考えていたこと」というと、なにかこう、疑問なりテーマなりがあらかじめあって、「○○について」みたいな感じで、ああでもないこうでもないと試行錯誤していた、みたいな、そんなイメージをあるいは持たれるかもしれないのだけれども、僕の場合、事情はそれとは少しちがっているみたいです。「なにやら、自分が考え事をしているみたいだ」という実感のようなものは確かにあったのだけれども、自分が何についてそんなに考えているのかは、僕にはずっとわからないままだった。こんな言い方をするとあるいは精神の具合でも疑われるかもしれないけれど(そして、その疑いを晴らせる自信もあまりないのだけれども)、僕にはそれはなんだか自然なことのように思えたので、わからないまま、その「考え事」に好きなだけ時間をかけさせるようにしてみました。犬を放し飼いにするみたいに。あるいは、家の中に猫を飼うみたいに。どちらもやったことないけれど。

 具体的に何があったかというと、暦が2月に入ったその日から、唐突に、長い距離を歩きたくなりました。そこで、それまで電車を使っていた仕事場への往復路の中に、長い散歩を組み込んでみた。少し(のちに、だいぶ)手前の駅で降りて、30分、1時間、たまに2時間以上、音楽を聴くわけでもなく、特に景色を楽しむでもなく、とても散歩日和とは言い難いような日も、黙々とただ歩きました。そういう生活を一か月続けていたのだけれども、別にその間に階段を上るみたいに考えが前に進んでいくとか、そういうことはなくて、とりとめのないことが次々と浮かんでは消えていくだけで、手ごたえみたいなものはまるでなかった。そもそも、「考え事」の中身さえわからないのだから、手ごたえの覚えようもないわけですね。

 そのようにして2月が過ぎて、3月5日の今日、突然霧が晴れるみたいにして、その「考え事」の正体がわかったのでした。

 短い言葉で表すならば、僕はずっと、「謎」について考えていた、ということになります。言い換えると、僕は、「わからないこと」について考えていた。なにか具体的な、調べれば答えが見つかるような「わからないこと」があるというよりは、「わからない」という状態そのもの、「わからないこと」という事象それ自体、そういうものについて僕は考えていた。「わからないこと」は、いったい、どうしてわからないのだろう?「わからないこと」について、いったい、どんな風に考えればいいのだろう?「わからないこと」は、解決するべき課題なのか、あるいは、享受するべき楽しみなのか?僕はこの人生の中で、「わからないこと」とどう付き合っていくべきなのだろう?

 どうしてそんなややこしいテーマに首を突っ込んでしまったのか、そこのところは僕にもわからない(「わからない」が多くてすみません)。しかしながら、そのようにして「考え事」の主題がわかるようになると同時に、その疑問への回答もまた、同じくらいはっきりと出来上がっていた。

 僕は、僕の周りに(あるいは、自分の内面に)ある無数の「わからないこと」について、それらが「わからないまま」であることに、積極的な意味を見出すべきなのだ。「わからないこと」が「わからないまま」そこにあるという状況は、原則的に、歓迎されれべきものとしてとらえられた方がいい。言い換えれば、「謎」は「謎のまま」である方がいい。そういう種類の「謎」というのが確かに存在する。あるいは、むやみに「既知」にされるべきでない「未知」がある。あるいは、明かりで照らされることなく暗がりのまま保たれるべき「闇」というものがある。あるいは、説明されるべきでない事象があり、論証されるべきでない理がある。この「あるいは」はどこまでも続く。

 どうしてまた、こんな考え事をしていたのだろう?そして、どうして「わかならないまま」に重大な意味を見出したように感じているのだろう?僕はどちらかと言うと、職業的に、「わからないこと」を「わかること」に変換していく作業に親しんでいる。塾の先生として勉強を教えるというのは、押しなべて、そういうものであるわけだから。それなのに、いや、おそらくそれだから、僕はそうした職業的営為の対称として、「わからないこと」、「謎」が残っていることを希求しているのかもしれない。ある種の精神のバランス作用として。

 そこにどんな理由があれ、今はっきりとわかっていることは、僕はある種のことを「わからないまま」にしておくことの必然性について、これまでにない強固な確信を抱いている、ということです。職業的にも、また、個人的にも(それらの差はどんどん縮まっている気がする)。

「謎」は時として、もちろん、不安や恐怖をもたらすことがある。「わからないまま」というのはいかにも不安定だし、見通しも悪いし、遠回りのようにも思える。「謎のまま」の謎を抱え続けていくことは、言葉ほど簡単なことじゃない。それでも、そこにどんな困難や恐怖があろうと、「わからないまま」であるべきことを、「わからないまま」にしておけるだけの勇気や強さのようなものを、失うことなくありたいと、僕はそう思っています。それは、僕の仕事にとって、あるいは人生にとって(それらの差は、ほとんどないようにも思える)、何があっても譲るべきでないとてもわずかなことの一つであるように思える。「謎」に固有の権利を付与していくこと。「わからないこと」に市民権を認めていくこと。すべての「闇」を解明せんとする欲望を自制していること。

おそらく、口をつぐんで黙々と道路を歩きながら、僕は何かに向かって必死に耳を傾けていたのだと、今ではそう思う。そこには聞き取るべき何かのメッセージがあるはずだと、そう思っていたんだと思う。そして、鶏と卵みたいな話だけれども、メッセージは確かにそこにあった。そう言っていいと思う。たぶん、長い散歩を始めた2月の僕は、その時すでに、どこかでそのことを知っていたんだと思う。そして、それが僕にとって少なからぬ意味を持つ何かであるということも。

「たぶん」や「おそらく」や「思う」が大変多いのだけれども、おそらく、生きることの面白さというのは、こういうことにあるのだと思う、たぶん。


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