それは物語なのだから
そんなわけで、ここのところは専らBONJOVIのニューアルバムを聴き込んでいるのですが、全部で18(!)ある収録曲の中で、どうも変わったところのある不思議な楽曲がひとつあるので、ちょっと取り上げてみたいと思います。14番目に収録されているボーナストラックのAll HAIL THE KING(「皆よ、王に忠誠を」の意)という曲がそれで、これから取り上げるっていうのにこういう言い方はなんだけど、これははっきり言って地味な曲です。アルバムを通しで聞いて、とりわけ記憶に残ってその後リピート再生されるような曲ではない。むしろ、「14曲目?え~っとぉ…」となるような曲である。そして、アルバムを通して品質管理が行き届いている「BONJOVI印」とも言うべきテーマやメッセージのわかりやすさが、ハンコの押し忘れみたいに、この曲だけにはどうも見受けられない(と僕は思う)。タイトルからして、ちょっと場違いな感じさえする(だから、ボーナストラックなんだろうけど)。歌詞を訳してみたので、時間がある人はちょっと読んでみてください。一読して「ああ、なるほど、そういうことね」ってなる人はきっと少ないんじゃないかと思う。
重いのは、王冠を載せたその頭
あらゆる人々がはるか彼方から彼が話すのを聞きにやって来た
彼らは全ての言葉に聴き入り、歌のあらゆる音に耳を傾けた
重いのは、王冠を載せたその頭
彼は空に触れ、全ての星に明かりを灯した
彼は指の一振りで稲妻を瓶に収めることさえできた
私はあなた方であり、あなた方は私であり、我々は他の何者でもない
空に触れ、全ての星に明かりを灯すのだ
皆よ、王に忠誠を
その居城が崩れ落ちんとしていようとも
張りぼての王子が飾り物の王冠を取ろうとも
王の財貨は貧しい者のもの
王の黄金は富める者のもの
王様、万歳
その魂こそが、彼の財宝
彼は雲の上に登り天国の最も高い丘を目指した
その高さからは、眼下の地球など青い錠剤に過ぎない
彼は全ての馬たちに風を送り、あらゆる人々に善良な意思を贈った
彼はそのようにして天国の最も高い丘から還って来た
皆よ、王に忠誠を
彼の居城は崩れ落ちんとしている
張りぼての王子が飾り物の王冠を取り
貧しい者が王の財貨を取り
富める者がその黄金を取る
王様、万歳
残されたものは、その魂のみ
彼は息を引き取り、その身体は大地に埋められた
偽の預言者たちが彼の遺産について語り、次なる忠誠を求めた
忠義深い者たちは耳を傾けず、忠誠を拒んだ
彼は息を引き取り、その身体は大地に埋められた
皆よ、王に忠誠を
彼の居城は崩れ落ちている
張りぼての王子の頭に飾り物の王冠が載せられる
その財貨は貧しい者に渡り
その黄金は富める者が握る
王様、万歳
彼の財宝は、その魂
僕ははじめ、この詩は現実世界にある何かの風景を寓話的に表現しているのだと思って、この比喩の主題はいったいなんだろう?と頭を巡らせてみた。「王」とは何の比喩だろう?「崩れ落ちる居城」とは何を示唆しているのだろう?「その魂こそが財宝」とは、どのような精神のあり方を指し示す修辞的表現なのだろう?でも、僕の頭ではどうもうまくその真意を探ることができそうにないので、今のところ、そういう理解の仕方は諦めることにしています。王は王であり、城は城であり、魂は魂なのだ。そういうことにして、比喩の向こう側をあれこれ詮索する代わりに、短い物語としてのその世界観をそのまま受け入れて、楽しむことにする。
そういう気持ちであらためて耳を傾けてみると、この王様の物語は、不思議な奥行きとそこはかとない淋しさのようなものを併せ持った、ひとつの空想的世界観として浮かび上がってくる。王様は実に高潔で、超越的で、宿命的に孤独である。「彼に残されたものは、その魂のみ(His fortune is his soul)」という言い方は、敬いの科白とも、憂いの言明とも、そのどちらでもないものとも取れる。「貧しい者が王の財貨を取り、富める者がその黄金を取る(Poor man has his money, rich man has his gold)」というのが、果たして王の意思に基づいた贈与なのか、単なる収奪の末路なのか、そのあたりもはっきりしない。はっきりしているのは、彼の「居城が崩れんとしている(whose castle is falling down)」こと、彼が「息を引き取り、その身体は大地に埋められた(breathed his last and they laid him in the ground)」ということ、そしてあとに残されたのは「張りぼての王子(a paper prince)」と「偽の預言者たち(false prophets)」と、恐らく肩身の狭い思いを強いられている「忠義深い者たち(the faithful)」だということ。そして、王様は「天国の最も高い丘に登り(to the heaven’s highest hill)」、「全ての馬たちに風を送り、あらゆる人々に善良な意思を贈った(Gave wind to all his horses , to all his men good will)」。
この物語は、果たして、どのように読まれるべきものなのだろう?僕らは王の孤独を哀しむべきなのだろうか、それとも、その高潔に胸を震わせるべきなのだろうか。おそらく、どちらでもあり、どちらでもないのだ。なぜなら、これは物語なのだから。これは物語なのだから、そこに描かれたその風景に意味を与える仕事は読み手としての僕らの側に委ねられている。僕らはそれぞれの想像力やら何やらを使って、馬たちに送られた天国の風を吸い込み、稲妻を瓶に収め、全ての星に光が灯された夜空に手を触れる。それが物語というものなのだと僕は思う。
一つ強調しておきたい事実は、この不可思議な物語を持ったあくまで地味なボーナストラックが、それを聴いた僕の中に確かな居場所を見つけて留まっている、ということです。僕は折に触れこの曲を思い出し、例えば自転車に乗っているときなんかに、ふいにメロディーを口ずさんでいたりする。この孤独な王様の物語は、そのようにして、僕の精神フィールドのどこかに上手く着床した。忘れがたい残り香をそこに置いていった。たいした精神ではないけれど、こういうことはどんな物語にでも起こることではない。だからと言って、この物語が果たしてあなたの精神フィールドの中に居場所を見つけられるかどうか、それは僕にはわからない。同じように、あなたの精神の中に深く根付いている別の物語が、だからと言って、果たして僕の精神にフィットするかどうかも、わからない。それはわからないけれど、それでも、僕らはそれぞれの精神フィールドのどこかに何かしらの物語を携えながら生きている、というのは、人類としての僕らに広く当てはまる共通項のようなものなのではないかと、そう思う。僕らは誰もがそれぞれの物語を生きているし、その物語に共振するまた別の物語を補強するように内包していくことで、それぞれの物語をより強固な、カラフルかつ奥行きを持った、生きるに値するそれとして更新していくことができるのではないか。僕はそう思っている。
おそらく、そのような意味合いにおいて、僕はあなたであり、あなたは僕であり、僕らは他の誰でもないのだ(I am you and you are me and we are who we are)。