top of page

第一志望を譲っても

この前の金曜日に東京都立高校の一般入試がありまして、それをもって僕のところにいるすべての受験生の受験が終わったことになります。一口で「受験」と言ってみても、その内実は実に様々で、夏休みには大勢が決まってしまうようなものもあれば、長い冬を越えるようなもの、とても準備が間に合わない短期決戦もあれば、いつまでも予行練習ばかりしているみたいな長期戦もあって、十人の受験生がいれば十通りの受験がある、と言っても言い過ぎにはならないと思わせるだけの多様性がそこにはあります。月並みな感想だけれども、人生みたいだなといつも思う。

 今年僕が教えていた受験生の中で、受験を始めた当初の第一希望通りの進路に進むという子は一人もいません。それぞれがいろいろな理由や事情を持ちながら、かつて向かっていた場所とはちがった場所に行くことになっています。どこかの塾が「第一志望は譲れない」といったコピーを掲げて宣伝しているけれど、そういうのが受験の正解であるとしたら、僕が今ここで書いているのはとんでもない事実の告白(あるいは、自己営業妨害)みたいになってしまいますが、もちろん、そうではないと思っているから、こうして書いています。僕は、あくまで個人的にだけれども、「第一志望は譲れない」というのは必ずしも受験の正解ではないのではないかと、そう思っている。

 「第一志望」というのは、例えば15歳や18歳の、4月や6月や8月に、「来年の春からあそこの学校に行きたいな」ということで目指していく、そういうものであるとします。そして、「第一志望を譲らない」というのは、その15歳の春(あるいはもっと前)に掲げた目標を夏も秋も冬も変わらず掲げ続け、相応の努力をもってめでたく叶えてしまう、ということだとしましょう。「第一志望を譲らない」が価値とされるのは、その初心貫徹の意思の固さと、必要十分な努力をそこに注ぎ込める能力が認められてのことと思います。確かにそれはどこに出しても恥ずかしくない立派なものだし、僕もそういう人を目の前にしたら心からの拍手を惜しまないと思う。そうなのだけれど、とりわけ前者の「初心貫徹の意志の固さ」については、それは得てして「しっかりしてる」といった評価を受けることになるのだけれども、必ずしもそうとは限らないのではないかと思っている。

 受験生をやっている15歳や18歳の彼らは、様々な意味合いにおいて、「学習」というものを日常業務としている。学校や塾に通ったり、スポーツをしたり、あるいは芸術活動に励んだり、彼らの日常のほとんどを占めるそうした行為には、一定の割合で、「何かを学ぶ」という要素が含まれている。そうですよね?学校の授業をろくすっぽ聞いていない子だって、スマホゲームに新機能が追加されたりすれば、一を聞いて十を知るの如くそれを学習する。技能の向上に無関心なスポーツや芸術活動は存在しない。彼らを取り巻くほとんど全てのものが、彼らに「それまでの自分とは、少し別人」に変化していくことを促す。もちろん、それはなにも「彼ら」だけに当てはまることではないのだけれども。そのようにして、彼らは、僕らと同じように、しかし、おそらくその速度と質において彼我の差をつけながら、自己の再構築を繰り返すプロセスの中に巻き込まれていく。言い換えるならば、成長や成熟へと続くプロセスの中に。

 成長としての自己の再構築の中には、とうぜん、自己の相対化も含まれている。大豆製品の中に豆腐ハンバーグが含まれているみたいに。そして、自己の相対化は、自己否定、自己嫌悪、自己嫌疑といったややこしいプロセスを経由しないことには成立しないようになっている。大豆が豆腐を経由せずに豆腐ハンバーグにはなれないように。そうしたややこしい自己再構築プロセスの中で、「それまでの自分」に対して疑いの目を向けつつ、それを再検討していくうちに、「それまでの自分」が欲望の対象としてきたものや、掲げてきた目標に対して、「それ、ちがくね?」といった嫌疑が提示されるということは、しごく当然であり、むしろ望ましい展開であろうと僕は思う。

 「第一志望は譲れない」について、僕が思うことはそのことです。そんな風に日々成長している彼らにとって、「かつての第一志望」が「今はべつに」に変わっていくことは、なんら不自然なことはないし、ましてや、恥ずべきことでは全くない。むしろ、そのようにして「気が変わる」というようなことは、成長や成熟の本質に近い何かなのだと思う。もちろん、初心貫徹も素晴らしい。けれども、それだけが人生ではない。

 第一志望を譲っても、できることなら、譲らずにいてもらいたいなと思うことが、いくつかあります。それは、各人がそれぞれに持ち合わせた特異な個性であり、「気が変わる」ことができる精神の自由であり、「受かったところが第一志望さ」と言い切ってしまう図々しさです。親切心の不足しているこの世の中では、第一志望がすんなりと叶えられるというようなことは、あまり起こらない。「なりたい自分」にはいつまで経ってもたどり着かず、「理想の恋人」の到来を待ち焦がれているうちに時間は無慈悲に流れ、「あこがれの職業」が産業の構造転換のあおりを受けて消えてなくなってしまうことだってあり得る、そういうような世界に僕らは生きている。それでも、あつかましいことに、僕らはけっこう幸せに生きていくことができる。そうではありませんか?

どんな道もローマに通じている。第一志望を譲らないことだけが人生じゃない。僕はそう思っている。横道にそれることは悪ではないし、むしろ、その横道こそが本道だった、ということだってある。「正しい道」を前もって知っている人はいない。なぜなら、もし「正しい道」というものがあるとすれば、それは「納得感のある人生」を生きた人が、それまでの変遷を振り返るときに、はじめて生成するものだから。

僕はそう思っている。

「自分自身の歌をつくり、高らかに歌い、人生を愛そう」

(BONJOVI”Reunion”より)


最新記事

bottom of page