うまく言えないのだけれども
さて、いよいよ明後日に迫った「BELLSOUNDS」の中で、僕は「映画上映会“Brussel Street”」と題した出し物をやって、その中でウディ・アレン監督の「人生万歳!」を取り上げることになるのですが、そもそも、どうして僕が映画をやろうと思ったのか、という話。
おおむねのところは、“Brussel Street”という名前を思いついた頃に書いた文章(こちら)のとおりなのですが、もう少し考えを前に進めてみて、じゃあいったいどうしてウディ・アレンなんだろうとか、そのあたりのことを考えてみたときに、僕が映画を通してやってみたいことは、つまり、「ユダヤの研究」なんだろうと、そういうことがわかってきました。僕はここ数年の間ユダヤ人やユダヤ教に個人的な関心を持っていて、断片的に関連する本を読んだりしているのだけれども、この際ちょっと本腰を入れて勉強してみようかと思ったときに、この映画上映会のアイディアはうってつけだった、というわけです。だって、ほら、仕事なんだから。たっぷりと時間と手間をとって、映像や資料を用意したりする口実になるでしょう。単なる個人的な趣味では、少なくとも僕はそこまでできない。「仕事なんだから」と言いながら、やりたいことをやりたいようにやる。夢みたいな話ですね。そんなのに、果たして需要はあるのか?そのあたりのことは、よくわからないのだけれども。
つまり、こういうことです。僕が立ち上げてみたいと思っているのは、映画を楽しむ会というよりは、それを題材にして、僕が個人的に掘り下げてみたいと思っているユダヤ人のものの見方や考え方を研究する、カジュアルな勉強会のようなものなのです。そして、ウディ・アレン監督はもちろんユダヤ人であり、映画「人生万歳!」はこのテーマの第一回としてうってつけの内容になっている。果たして、そんなのに需要はあるのか?よくわからないのは、そのあたりのことです。
それで、どうしてユダヤなのか?という疑問がきっと誰の頭にも浮かぶだろうし、それと同じものが他ならぬ僕の頭にもぷかぷかと浮かんでいます。どうしてユダヤのことがそんなに気になるんだろう?そして、無責任なようで申し訳ないのだけれども、その理由を僕はまだうまく言葉にすることができないでいます。「たぶん、こういうことだろう」というアイディアはあるのだけれども、それを十分に手ごたえのある言葉に置き換えることがどうもできない。言葉足らずの恋愛みたいに、それのことをきちんと知るには、とにもかくにも、時間と手間をかけてそれとじっくり向かい合ってみる他ない。
僕が初めてその人となりをちゃんと知ったユダヤ人は哲学者のレヴィナスで、彼が言ったこの言葉を、僕はそのまま僕の仕事における基本姿勢みたいなものとして勝手に流用しています。ほとんどの判断の根拠として。個人的な業務マニュアルみたいなものとして。
「教育とはあくまで自由意思を持った存在者に対する働きかけであるべきです。それは自由が目的それ自体であるからではありません。そうではなく、自由がつねに人間が到達しうるあらゆる価値の条件であるからです。」
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BELLSOUNDS
2016.12.3.SAT.
11:00-17:00
会場:BELL HOUSE
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