そういう気分
例えば、髪を切ってから2週間くらいしか経っていないのに、ふとある日鏡を見て、そこに写っている自分の顔がどうにもこうにも気に食わなくて、「もう、髪型かえたい、いますぐ」みたいな気分になった、というようなこと、ありませんか。僕にはあります。ほとんどの人は、だいたいの場合、「まあ、分け目かえてみるか」とか「帽子かぶっちゃえ」みたいな現実的対応をすぐに思いついて、次の定期的な散髪機会までやり過ごす判断を下すのだと思うけど、それでも、にっちもさっちもいかず、美容院に電話をかけてしまう、みたいなことだって、なくはないですよね。僕も記憶にある。よほどのことでもない限り、しかし、問題は髪型の方にではなくそれを装着した(と言うべきか)当人の側にあるのが常で、要するに、ちょっと食べすぎて太ったとか、顔がむくんでるとか、洋服のセンスに問題があるとか、そうした理由で発生する容姿の不具合の責任を一身に背負わされる形で、「髪型が悪い」という短絡な結論が導き出されてしまうのだと、僕はあくまで個人的な経験をもとにそう類推します。別に誰のことを言っているわけでもなくて。
そんなふうに、髪型というのは僕らを過剰な期待とその裏返しとしての不当な落胆に導いたりすることがある。どういうわけか、例えば雑誌のモデルと同じ洋服を買ってもその人のようになれるとは思ったりしない(ですよね)のに、ことが髪型になると、僕らは潜在的に抱えている別人変貌願望を自制することが難しくなりやすい傾向がある。そう思いませんか?どういうわけだか、僕らは自分が妻夫木聡(例えが古いのはわかってる)でないのは髪型が妻夫木聡でないからだと思ったりするところがある。理屈は簡単、主因である顔のつくりに比べて、髪型というのは努力次第でどうにかなりそうな部分だからですね。顔そのものをつくりかえるのは、経済的にも倫理的にも抵抗が大きし、手間も時間もうんとかかる。それに比べて髪型はお安い御用で、ほんの1時間椅子に座っているだけで、頭部の上四分の一くらいは確かに妻夫木聡に変貌したりする。そして、それだけでいろんな問題が一気に片付いたような気がしてくる。
何の話をしているのかと言うと、僕はドナルド・トランプが勝ったアメリカの大統領選挙の様子を見ていて、アメリカの人たちの中に「もう、いますぐ、髪切りたい」式の突発的変貌欲求があったのではないかと、そんなことを思ったんです。トランプが大統領になるには問題の多い人物であることは、当の彼らが他の誰よりもよくわかっている。なにしろ身内のことなんだから。向こう4年の間、彼の顔を自分たちの国の代表として立てていくことの気の進まなさや面倒臭さだって織り込み済み。それでも、従来型の政治家としてのクリントンを選ぶつもりには、どうしてもなれなかった。古い気の進まなさよりも、新しいそれを選んだ。幾多の現実的損得勘定を上回って、「変えたい、とにかく」の感情が勝った。それほどに多くのアメリカの人たちは「今の自分たち」の姿に不平不満を抱いていて、代わり映えしやすいところからとにかく変えてしまいたかった。
ずぶの素人であり全くの外野である僕の目には、今回の事態(大方の「論理的な」予想を覆すトランプの勝利)はそのような事情で推移していったのではないかと、そんなふうに見えている。そして、同じようなことが少し前、イギリスのEU離脱騒動でもあった。さらに、僕が思い出せる限り、日本の国政選挙はずっとそんな調子で運営されている。
「現状維持」への異常なまでの嫌悪。こうまとめてしまえば、話はそこでおしまい。とにかく、21世紀の世界は、なにかを変えたくて仕方がない人たちで満ち満ちているのだ、と。スクラップアンドビルト、破壊と創造、もののあはれ。諸行無常の響きをたたえた沙羅双樹の鐘の音ははるか中世から鳴り響いていたじゃないか、みたいに。
でも、まあ、それでいいのかもしれない。この文章には、勢い余って書かれたわりに、明確な結論とか、これだけは言っておかなければ、みたいな主張はないみたいです。「とにかく、そうなっているみたいだ」という感想、以上、おわり。そりゃあトランプが大統領になったら世界はとんでもないことになるかもしれないし、アメリカのあおりを受けて日本も大変なことになるかもしれないけれど、それを言ったら、世界は既に十分とんでもないことになっているし、日本だってとっくのとうに大変なことになってるんだから、「それがどうした」という気がする。アメリカのみなさんも選挙のすったもんだが終わってそれぞれの日常生活を取り戻していくだろうし、日本の偉い人たちがアメリカの顔色と出方に一喜一憂する光景はこれまた見慣れたものである。いろいろ変わるみたいで、まるで何も変わらないような気もする。
まあとにかく、そういうことになっているみたいですね。