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テストのことは好きじゃないけれども

 誰に聞かれたわけでもないのにあらかじめ断っておくと、僕は原則的にテストの必然性には懐疑的な立場である。可能ならばそれは全くない方が好ましいし、そうはいかないとしても、なるべく少なく済ませるような、そんな工夫が求められるのではないかと思っている。例えば、学校の先生が各生徒に成績をつける義務を負っていて、そのためにテストを必要としているとしても、そもそも、各々の生徒がどれくらい熱心に勉強しているかくらいなら、平素の様子をよく見ていればわかるはずだし、成績なんてそれでつけてしまえばいいんじゃないかと思う。あるいは、高校や大学が入学者を選抜するためにテストが欠かせないとしても、ペーパーテストというのはかなり偏った一部の能力しか測れないものだし、人物評価の指標としてはわりと頼りないものなのではないかと思ってしまう。

 何が言いたいのかというと、僕が危惧しているのは、「なんでもテストの点数で決める」というシステムができあがっていくにつれて、「人を見る目」というより人間的で死活的に大事な能力が失われていくのではないかと、そういうことです。テストは客観的で根拠があって公平じゃないかというのは、どちらかというと、責任を回避したい大人の側の言い分のように僕には聞こえる。そうではなくて、「えこひいき」というのは現実社会にごく当たり前に存在するむしろ重要な要素なんだから、子供たちは「いかにして人を見る目を持った誰かに認められるか」、大人たちはその「人を見る目」を養う技術をいかにして絶やさずにいられるか、といったテーマに取り組む方が、はるかに有益なのではないかと、僕はそう思います。

 と、ここまで長い前置きをしておいて、実のところ、かく言う僕は、教えている子たちがいわゆる「テスト勉強」をしているのをむしろ好意的な目で見ていて、年に何回かある(今もその何回かのうちの一つです)「テスト勉強期間」というのをどちらかというと楽しみに過ごしています。僕はシステムとしてのテストには反対の立場だけれども、現実に彼らがテストに立ち向かう過程の中には「素晴らしい何か」が生まれる可能性が常にあると思っている。目的としてのテストはだいたいろくでもない代物だけれども、そのために費やす時間は得てして意味ある何かに繋がっていたりする。「目的や動機はどうあれ」というやつですね。

 例えば、昨日僕は中学3年生の教え子たちがその「テスト勉強」をするのを手伝っていたのだけれども、そのだいたい5,6時間くらいの間、僕はわりに満ち足りた気持ちで、実に気分よく仕事をしていました。5,6時間というのは充実させるには決して短い時間じゃないと思うけど、その5,6時間はどこに出しても恥ずかしくないくらいしっかりと中身のあるそれだった。集中が途切れて惰性に流れたり、余計な心配から取り越し苦労をしたり、彼らの年代にありがちなそういうのがほとんどなく、ほとんど時間を忘れて没頭していた。まるでゲームに熱中するみたいに。

 そういう時間を一緒に過ごしていると、僕は自分のやっている仕事を好きになったり、ちょっと誇らしく思えたりさえする。疲労はあくまで心地よく、気分は湯上りみたいに爽やかで、ご飯はどこまでもおいしい。そう、目的や動機は何であれ、そんな風に「精一杯努力する」ということを体験することは、誰にとってもかけがえのない財産になりえるのだ。中学校の成績なんて何年もしないうちに忘れ去られてしまう、とるに足らないものだけれども、その道すがらで「そういうもの」を手にすることができたとしたら、それはきっと長く彼らを人生を下支えする力になる。なんだか校長先生の訓話みたいだけれども、僕はやはりそう思う。

 昨日というたった一日が、ひょっとしたら、彼らの、あるいは僕らの人生をわりと大きく変えてしまっているかもしれない。あくまで物静かに、なんでもないような顔をして。そう思えるような瞬間に、そうしょっちゅうではないけれども、この仕事をしていると出会う。ほとんど前触れもなく。風が吹くみたいに自然に。

学びの公園二階の窓

比良晋吾


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